『Re:Letters』

――うっすらと目を見開くと、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。柔らかく身体を支えていたベッドがきし、と僅かに音を立てた。
 未だまどろみ醒めぬ頭をゆっくり動かし、机の上にある時計に目をやった。起きるには少し早過ぎたな、と克哉は苦笑した。
 寮を出て家に帰ってきても、早起きの癖が身体に染み付いているようだった。
 自分以外誰もいない家。一人の朝には慣れていたし、寮生活を苦痛に感じた事はない。孤独はいつも克哉の側にいた。それを飼い馴らす方法も知っていた。
 それでも、達哉がいないという事実を受け入れられないでいた。達哉がいなくとも、太陽が昇れば一日は始まる。
 悲しいかな、達哉を隠したまま世界は回り続けていた。

 身支度を整えて、克哉は家を出た。空に近いせいか、日差しが強く感じられた。
 珠間瑠市に面していた海は既になく、代わりに雲がゆらゆら揺らめきながら珠間瑠の下を通り過ぎて行った。
 ほんの数週間前まで、珠間瑠市は何処にでもあるような普通の都市だった。それが何故空に浮かび上がり、今も尚漂い続けているか分からない。
 ただ一つはっきりしている事は、その日を境に達哉──克哉の大切な弟──がいなくなってしまったという事だけだ。
「達哉……何処にいるんだ……?」
 うわ言のように呟いた。刑事を辞めてから、克哉は毎日達哉を捜し続けた。
 珠間瑠市内を巡るのは、市内を知り尽くした克哉にとって造作もない事だった。それでも、それでも──と、毎日じっくり時間をかけて捜し続けた。
 捜すのを止めるのはたやすいけれど、それと同時に認めなければならない。

──達哉はもう、此処にいないという事を。

 下の世界に生きているかもしれない。何らかの事情で身を隠しているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせて、何度捜すのを止めようと思った事か。
 克哉にとって、これ以上の捜索は苦痛でしかなかった。
“あれ”を見てしまったから。思い出すのも阻まれるほどの、辛い現実。
 暗い思考に陥りそうになるのを必死に堪えて、克哉は家から程近い砂浜へ足を向けた。幼い頃、達哉を連れてよく遊びに来たものだ。
 吹き付ける風が克哉の髪を撫でる。砂浜に波が打ち寄せる事はないが、雲海の水平線は海原よりも美しかった。
 歩く度にシャリシャリと靴の裏から音がする。現実と虚実が隣り合わせになったような感覚を覚える。
“あれ”が虚実ならどんなに良かったか――と、克哉は昨夜の事を思い出していた。



 もしかしたら何か手掛かりがあるかもしれない──と、克哉は達哉の部屋を訪れた。勝手に部屋に入る事を心の中で詫びながら、克哉はゆっくりと扉を開いた。
 主のいない部屋に、淡く月光が差し込んでいた。僅かに漂う香水の匂い。整理整頓された棚。
 今の今まで、足を踏み入れるのを許されなかった小さな聖域。
 ゆっくりと視界を巡らせ、手掛かりになりそうな物を探し始めた。と、窓辺の机の白い紙に目が止まった。光を受けて、それはほんの少し影を落としていた。
 そろそろと震える手を伸ばし、丁寧に畳んであったそれを開いた。
「手紙……?」
 克哉はそれを手に持ったまま、すぐ側にあるベッドに腰掛けた。ぎし、と軋んだ音が部屋に響いた。
 とくん、とくんと、心臓の鼓動が鼓膜を揺らす。どんな事が書いてあるのか想像出来なかった。克哉はふう、と深呼吸してから手紙に視線を落とした。
 少し乱暴な字で、小さな紙いっぱいに書かれた手紙。何度も何度も書いては消した後が残っていた。これを書いている達哉の姿がぼんやり思い浮かんだ。

『これを読んでいる時、俺は多分この世界にいないかもしれない。
 世界がこんな状態になったのも俺のせいなんだ。だから俺は俺なりにケリつけてくる。
 本当はちゃんと言葉を交わすべきなのかもしれない。でも、お互いに不器用だから、きっと喧嘩別れになると思って。
 こんな形になってごめん。
 必ず帰るよ。
 達哉』


 読み終えて、克哉は手紙を握り締めた。内容は読んだ。けれど理解出来なかった。
 今回の事と達哉が関係していている? それに、こんな手紙を置いていって。
“俺は多分この世界にいないかもしれない”
“必ず帰るよ”
 克哉は頭を振った。頭を駆け巡る想像を振り払おうと必死だった。どういうつもりでこんな、こんな事を。
 わざわざ希望を残していくなんて。
 こんなもの探し当てなければ良かったと、それがどんなに自分勝手な考えか分かっていながら克哉は呟いた。
「僕が欲しかったのはこんなものじゃない……」
 克哉は握り締めた拳に更に力を込め、声を殺して泣いた。



――今の克哉にとって、この行為は全くもって無駄な事だった。それでも尚捜索を続けるのは、それが手段ではなく目的にすり替わったからだった。
 克哉を繋ぎとめているもの、それは“達哉の捜索”
 その先に達哉が居ようと居まいと関係なかった。本当は、達哉がもうこの世界にいないという事を認めていた。そうでもしなければ、克哉の心は壊れてしまっていただろう。
“あれ”を見た瞬間、克哉の中で希望は絶望へ変わった。それを抱いて生きていけるほど、克哉は強くなかった。
「今でもお前を捜しているんだ、達哉」
 克哉はそう呟いて、砂浜を歩き続けた。